Cyber Lily Diary

Cyber Lily Diary

クラウドセキュリティエンジニアが語ります。

「ネットに繋がらない自由」もあるのだということ

コロナ禍の前、北米に駐在していたころの話です。1週間の休暇を取り、キューバに行きました。どの旅行記も「米国との関係悪化が懸念されており、行くなら今」と書いており、純粋だった私は煽られるがままに航空券のチケットを予約したのでした。

到着して、街に出てびっくり。どのお店に入ってもフリーWi-Fiが飛んでない。泊まった宿にもない。

キューバの首都ハバナでは、エテクサ(ETECSA)という通信ショップが街中の特定の公園等でWi-Fiを提供しています。現地人の事情は知りませんが、一般の観光客がハバナでインターネットを使いたかったら、このようにエテクサがWi-Fiを提供している場所の情報を仕入れ、実際にそこに赴く他ありません。そしてその前に、街の中心部にあるエテクサの店舗を訪れ、接続用の認証情報が書かれたカードを購入する必要があります。エテクサの営業時間中は、観光客が行列を形成します。Wi-Fiが提供されているエリアもごく僅かなので、朝から晩まで大勢の人々が座り込んでスマートフォンをいじっています。デジタル化が全く進んでおらず、トイレに紙を流さないくらい、水道や電気といったインフラも相当古い設備をそのまま使っている国です。良くも悪くも昔ながらのカリブ海の島国の面影を濃厚に残した街並みの中で、人が密になりスマホの画面を凝視しているその光景は、とても異様で、同時に非常に印象的でした。

事前に読んでいた旅行記でこのような現地事情を知ってはいたので、オリジナルでガイドブックを作成して持ち込みましたが、それ以外に頼れるツールがありませんでした。スマートフォンも念のため携帯はしていましたが、もはやただのカメラ以上の何でもありませんでした。

キューバ滞在中は、ハバナの他にビニャーレスとトリニダーという2つの都市を周りました。ここでもオンラインの事前予約等はできないため、入国前の段階でいくつか候補を揃え、それぞれの住所を控えておく必要があります。宿の人にタクシーを手配してもらって、数時間の車に揺られて(基本的にすし詰め)目的の街に到着したら、候補の宿を順番に回っていき、ベッドに空きがあるか訪ねていく、という流れになります。もし、訪れた宿全てで空きがなかったら…考えたくもないですが、可能性としてはありえます。この場合、宿のオーナーにその街の他の宿を紹介してもらう他ありません。

実際に現地を訪れてみると、改めて自分が普段、いかにスマートフォンに依存しているかを実感しました。同時に、スマートフォンが無くても、キューバという社会主義国家、言葉も違えば作法も違う環境、右も左も分からない状態でも余裕で生きていける、なんなら旅までできるという、至極当然の事実を再認識しました。もちろん、キューバという国が印象に反して驚くほど治安が良いという前提がありますが。

当たり前ですが、観光客の視点でもそんな感じなのです。キューバの人々は、日常の生活で全くインターネットを使ってない訳です。キューバ国民の中には、インターネットに接続可能なデジタルデバイスに触ったことすらないという人も少なからずいるでしょう。それでも、みんなとても幸せそうなのです。陽気で、大らかで、気さくなのです。日本で毎朝死んだ魚のような顔をして通勤電車に揺られていた自分の姿を隣に置いて比較してみると、そこはあまりにも時の流れが春の小川のように穏やかで、世界は幼き日の母のように優しく、そして街並みは真冬の炬燵の中のような暖かさに満ちていたのです。

ITエンジニアとしての仕事はインターネットの存在が大前提です。平日の日中は常にインターネットの向こう側のことを考えます。インターネットを通じてクライアントとサーバがどのような原理でコミュニケーションを実現しているのか、そのネットワーク構成や通信プロトコルを解析します。そしてプライベートの時間はYouTubeや数多のSNSを巡回し、ドーパミンの海に溺れます。日々の生活の中で、むしろインターネットに接続されていない時間の方が短いのです。こうして文字にしてみると、19世紀の清国のアヘン中毒者と現代の日本人は何が違うんだろうかと考え込んでしまいます。そんな状態が、「幸せではない」という状態が、当たり前になっていたことに気付きました。脳の処理が到底追いつかないほどの量の情報が氾濫し、常に電磁波を浴びながら、インターネットを通じて正しいのか間違っているのか分からないような情報の奔流に晒されている状態が普通であると。そうでない状態は不幸なのだと。それは貧困なのだと。よく分からない価値観に染まり切っていたことに気付きました。

この時から、「インターネットに繋がらない自由」という概念が、私の意識の片隅に置かれました。私の肉体が忙殺される度、その存在は埋没します。しかし、ふとした瞬間に、ひょっこりと顔を覗かせてくるのです。その時、私の意識の世界では、太陽が昇ったかのように、新しい風景が広がります。